私は、この20数年、ミュージシャンやアーティスト、ビジネスマンの日米交流活動をボランティアで数多く行なってきた。
ただ、この10年で分かったことだが、私の祖父利一が同様に様々な日米交流活動を行なっていた人物であると知り驚いたことがある。
特に、後年「幻の東京オリンピック」と呼ばれた1940年東京オリンピックの招致活動に関わっており、杉並区への選手村誘致のために杉並区会議員への立候補をしていたのを知ったのは正に驚きだった。
以下、私の新刊書の中で、「番外編」として、私の様々な日米交流活動が祖父のDNAによるものだという部分をご紹介したい。その他幾つもの私の国際交流活動の顛末はこの「番外編」をお読みいただければ幸いです。
「シカゴオリンピック招致委員会での体験」
シカゴ市とはブルースを通じての青森市との交流プログラム「Japan Blues Festival」を長く続けている経緯もあり、また日米交流プログラムを日米協会やシカゴ総領事館と一緒にアレンジしてきた関係もあって、シカゴ市庁舎には訪問する機会も多く長い付き合いの幹部も多い。そのシカゴ市が、2016年に開催されることになっていたオリンピックの開催都市に名乗りを上げたのである。
この時はシカゴを地盤とするオバマ大統領の時期であり、当時長くシカゴ市長を務めていたリチャード・デイリー市長が音頭を取りシカゴ・オリンピック招致委員会が結成された。 私はシカゴ市とのそれまでの関係から、2016年シカゴ・オリンピック招致委員会で日本人として一人だけ、オリンピック招致活動に参画することになった。この経験だけはお金ではとても買えない素晴らしい経験だった。2011年、国際オリンピック委員会から2016年オリンピックの最終候補の4都市が発表になっていた。東京、マドリッド、リオデジャネイロ、そしてシカゴであった。この時はリオが最終決戦で選ばれたことはご存知だろう。
私の主な仕事は日本のメディア対応で、当時日本から取材で訪れるNHK、時事通信、共同通信、読売新聞、日経新聞など日本のメディアのシカゴでの取材のアシストやアレンジであった。このシカゴ・オリッピック招致委員会の本部は、シカゴ・オリンピック招致委員会会長のパトリック・ライアン氏所有の世界でも最大手の保険販売会社Aon(エーオン)のダウンタウンの高層本社ビルの中に設営された。このエーオンの創業会長であり一代でこの会社を築いたパトリック・ライアンという立志伝中の人物は、NHKや日経新聞の記者のインタビューをアレンジしたが、人間的にも素晴らしい人物であった。
「シカゴ・オリンピック招致委員会大使としてコマネチが抜擢」
そして、このシカゴ・オリンピック招致委員会のアンバサダー(大使)という重要な役割は、なんと1976年モントリールオリンピックで10点満点を連発して3つの金メダルを獲得した当時14歳のルーマニア代表、ナディア・コマネチと決まった。彼女は1986年、共産国のルーマニアからアメリカに亡命してアメリカ市民権を獲得していた。
日本の大手メディアが一番喜んだのは、私がコマネチとの短いインタビューをアレンジしてあげた時だった。いろいろ記者たちが質問した後に、記者の一人が「あなたはタケシという名前を知っているか?」と聞いた。彼女は茶目っ気たっぷりに「もちろん知っている」と答え、例の有名な格好まで披露してくれた。「タケシは私のおかげで大金を稼いだのだから私に少し寄付してもいいんじゃないかしら」と答えたのには一同大笑いであった。ナディア・コマネチはわれわれがオリンピックで見た14歳の繊細なジムナストから素晴らしく成熟した大人の女性に変貌していた。
このシカゴ・オリンピック招致委員会には全米からオリンピックに絡む大手の弁護士事務所やコンサルティング会社から粒よりの人材が300人ほど派遣されて世界中で招致活動を行っていた。米国オリンピック委員会(U.S. Olympic Committee)の幹部たちとそれら全米から集まった人々との交流は私にとって得難い貴重な経験だった。
祖父、利一が1940年の「幻の東京オリンピック」の招致に関わって半世紀経ってから、孫の自分が何かの縁でシカゴ・オリンピックの招致活動に関わっている。この招致活動に関わった時は、まったく祖父の活動を知らなかったわけだが、現在これには何か偶然を超えた力があるのかもしれないと感じている。
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